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2012年9月7日金曜日

カタジーナ・ボボヴァ=ズィドロン先生とのインタビュー(ポーランド、2005年11月)

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ラファウ・ブレハッチの来日公演は5ヶ月も先ですが、音楽ファンの方の、期待感あふれるさまざまな声をきくようになってきました。大阪のチケットを予約するのに数時間電話をし続けたというファンの方々もいらっしゃるようで、アーチストに伝えたいです、この熱意。

さて、今回は、フェリクス・ノヴォヴィエイスキ音楽大学のカタジーナ・ボボヴァ=ズィドロン教授(ラファウ・ブレハッチに、15歳~22歳まで教えた)へのインタビュー記事。2005年11月19日、Gazeta Wyborcza紙に掲載されました。
ポーランドのファンの方が英訳してくださって、2009年の始めに英語ブログに出したものです。
全編に、ラファウの才能への、尊敬と愛が流れています。

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ブレハッチにくしゃみをするな。

ラファウはいつも、お父さんと一緒に来ました。小柄で、細い子でした。
今は随分変わりましたね。立派な若者になりました。

おかしいんですけど、最初の何ヶ月かは、私は彼の演奏に感心しませんでした。
いかにも、セカンダリースクールの優等生君の演奏、という感じでした。

それが、突然に!

私達は長時間にわたって、ノクターンに取り組んでいました。ラファウがコンクールで弾いた、あの曲です。
私はかなり熱中して、もう毎秒ごとに、何度も何度も止めました
「いいえ、私、絶対にあきらめない。」と思っていました。

何度も何度も、繰り返して、その音符が何を意味していて、音符の間には何があるのか、彼に言っていました。
ふと気づいて時計を見たら、もう2時間も過ぎている。でもノクターンは半分しか進んでいない。

急に心配になりました。
「お父さんが待ってらっしゃるわ。あなたを連れて帰らなきゃいけないから。あなたも疲れたでしょう?」
彼は私を見ました。驚いたように、
「いいえ、疲れていません。」

彼はピアノを弾くのが好きなのです。私達はレッスンを続けました。

1週間後、さあ、今はどんなふうに弾けるの、とききました。
でも、まだだめでした。

しかし、さらに2週間後、彼の演奏に、私は座り込んでしまいました。ほとんど、泣きそうになりました。
わずか2週間のうちに、 ラファウは私の指摘したことを全部消化し、自分の感情も組み入れて、 信じられないような演奏をしたのです。 神の御業のようでした。

(注:ラファウが学んだ頃の学校制度
   1 エレメンタリースクール 初等教育 7-15歳 
   2 セカンダリースクール 中等教育 15-19歳
   3 高等教育 およそ5年、終了すると、修士号が与えられる。カタジーナ・ボボヴァ=ズィドロン教授は、ラファウが15歳の時から教え始めた。)


私は、ショパンコンクールの前に、重要な事柄のリストを作りました。
ホテルには滞在しない、ジャーナリストと話さず、名声もインタビューもなし。
集中して、健康に注意。
ラファウも周囲の人も、風邪やインフルエンザにかからないこと。
近くの人がくしゃみをしたら、その場を離れること。

私のコンクールの時(注:1975年のショパンコンクールで10位)は、母が温暖なブルガリアからやってきて風邪をひき、私もうつりました。

ラファウがそう望めば、きっとコンクールでは優勝できるだろうと思っていました。でも、彼はそんなことは考えていませんでした。
どんな風に彼に伝えようか、考えました。優勝しようという決意が必要なのだと。

コンクールの第一次審査の時に、彼は優勝できる、と言おうと決めました。
そして言いました。
「あなたがそう決意すれば、このコンクールで優勝できるわ。」

彼は少し驚きました。私の言葉が意外だったようです。
多分、彼は、そういう考えを恐れていたのだと思います。意識して考えないようにしていたのではないでしょうか。
彼は私の言葉を、お父さんに伝えました。
「先生が、僕は優勝できるって言うんだ。」

私は常々、言っていました。
「勝利しようって思わないで。そういう考えはよくない。だって、それは他の人が負けるように祈ることでしょ。
他の人に対抗して演奏するんじゃない。自分の中から出てくる演奏に、全身全霊をかけなさい。
あなたがコンクールの入賞者であっても、子供たちのために演奏会を開くのであっても、違いはない。ショパンを差別して弾いてはいけない。」

(インタビュアー:なぜですか。ショパンが見ているからですか?)

そうです。ショパンは見ています。特にラファウを見ています。彼にほほ笑みかけているのよ。




ラファウは自分のの子のように、精神的な子供のように思います。

ラファウがノクターンを本当に素晴らしく、天界の音楽のように奏でたのを聴いて、私は彼に言いました。
「私から言うことは何もないわ。もしこういうことが何度も起きるようだったら、あなたは新しい先生を探した方がいいと思う。」

私は怖かったのです。こんなに才能ある子を教えるというのは、大変な責任だからです。
彼の中にあるものを自然に育てて、私からも何かを与えたいけど、私の感性に従わせるようなことがあってはならない。彼の感性や知性の成長に合ったレパートリーを用意する必要があります。

彼がセカンダリースクールを終えた時、お父さんに、教師を変えてはどうか、と提案しました。よろしければ、一緒に新しい先生を探しましょう、と。
お父さんは、賛成しませんでした。私は何度か、機会を見ては提案しました。とうとう、ラファウのお父さんは言いました。
「今のままが良いのです。私たちは、先生を変えたくありません。あなたに教わりたいのです。」

ラファウと私は、週に1回、一緒に座って練習しました。
(何時間くらいですか?)時間は数えてなかったけど、私が過度に演奏に介入しないように努めました。教育的なものではありません。
私がラファウを愛していることを知ってほしいけど、私は他の生徒たちも愛しています。
これほどの才能を神様から与えられなかったけれども、他の生徒たちも音楽を愛し、熱意を持って音楽に取り組んでいました。

また、彼に優勝してほしいという私の熱意を、彼に押し付けてはならないと思いました。

私の先生は、私に、ショパンコンクールで最高位に入って欲しいと望んでいました。先生の生徒でコンクールに出たのは、私が初めてだったのです。あらゆる努力をはらってくれ、私を圧倒してしまったのです。
その結果:私は自分らしさを出すことができませんでした。

私はラファウに何度も尋ねました。

a) 私に会いたいですか?
b) あるいは、会いたくないですか ?
c) どちらでもかまわないですか?
そして、どの答であっても、気分を害することはないから、と言いました。

ラファウの答は、
d) 考えてみます。

One, two kicks
ショパンコンクールの半年前、私はヤシンスキ教授(審査委員長)に会い、助けを求めました。
教授のご経験をいかしたかったのです。
ラファウはその場にいませんでした。

ヤシンスキ先生は、あなたはラファウとうまくやっていくだろうし、自分は特に手伝わない、といいました。私は、たくさん問題を抱えたまま捨てられた人のように感じ、氷のリンクに1人で立たされた気分になりました。
多分私は、責任を誰かと分担したかったのでしょう。
もしラファウが持てる才能をフルに発揮できなかったとしたら、私は罪悪感を感じることになるでしょう。やるべきことで見落としはなかったのか、あるいは過度にやりすぎたことはなかったのか。
私はそういった責任を、ヤシンスキ先生と分かち合いたかったのです。

しかし、先生は、どう対応するべきか、すべてご存知でした。
複数の教師が手伝おうとすると、ラファウのためにならないでしょう。
異なった解釈が混ざり合った大きなものが、彼の頭を占領してしまう。
それに、私も、自分の持っているものは全部彼に与えたつもりです。それによって、彼の独自性がつくられたとも思います。

(彼がステージに出て行くとき、何を話しましたか?)
私のひざで、彼のおしりをキックしました。
1回目は1次予選の前に、2回目は2次予選の前に。

本選の直前、彼の楽屋に行くと、彼は回れ右をしてキックを待っていました。
でも私は彼を振り向かせて、とても真剣に言いました。

「美しく弾きなさい。」
「はい。」とラファウは答えました。
「あなたの魔法をかけなさい。」
「はい。」

本選の後、私は自分に問いかけました。
「まあ、カシゥ、この道をどうやって前に進むのか、わかったところで、また別の知らない道が目の前に現れたわ。」

その後、ラファウのお母さんと私は入賞者演奏会を聴きました。廊下の端のところで、2人とも泣いていました。他には誰もいませんでした。
ラファウのお母さんは泣いていました。私も泣いていました。

(注:おしりをひざでキックするのは、幸運を祈る意味があり、ポーランドの若者がよく行うそうです。)


月刊ショパン2005年12月の特別号からお借りしました。

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