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2012年8月9日木曜日

ドビュッシーを弾く時の色彩――ラファウ・ブレハッチ、ドイツでのインタビュー

English

ドイツの Fono Forum  2012年5月号に掲載されたインタビューの一部です。
最初の部分のみ、オンラインで公開されていました。タイトルは、

"有名になることは、僕の人生の目的ではない"


Fono Forumでのオリジナル記事

(Quote)
シマノフスキとドビュッシーに、特別の関係を感じますか。 

2人の作曲家に、とても近い感じを持っています。ショパンコンクールの前、僕はドビュッシーをたくさん演奏しました。これによって、ショパンの音楽の音や陰影に敏感になりました。シマノフスキは、素晴らしい変調やメロディに魅了されました。スクリャービンの感化を受けたダイナミクスの対比や和声は典型的ですね。―例えば、前奏曲の始めの部分は、長調なのか短調なのか区別ができません。僕にとって、2人の作曲家は、印象主義と表現主義の違いを明確に示しています。


あなたは、シマノフスキの初期の表現主義時代の作品を、とても感情を込めて演奏していらっしゃいます。でも、決して音楽の中で自分を見失わないようですね。

おそらく、彼の第1番ソナタの中に、古典派的様式を見ているからだと思います。第1楽章はアレグロで、第1主題と第2主題が互いに対比し合うような構成になっています。第3楽章はある種のメヌエットで、第4楽章はフーガです。バッハのような典型的な形ではないにしても、非常にポリフォニー的な思考が現れています。こうした古典派的な要素が僕の解釈にかなり影響しています。音色もそうですし、ダイナミクスの対比もそうですね。


あなたのパーソナリティも影響しているのではないでしょうか。

そうかもしれません。アーチストはそれぞれ、音楽へのアプローチは異なっていますから。よく音の強さや音量に基づいて音色を明確にしますが、ダイナミクスの対比も、とても大切です。ですが、それが全てでもないんです。音楽作品のそれぞれの特徴に対して、僕はまず、特有の色彩を見つけます。そこから、アーティキュレーションやペダリングが決まってきます。時として、銀色か金色がかった音を作りたいときもあれば、別の時には、鮮明で強烈な、あるいは堅牢な音がふさわしい場合もあります。例えば、ドビュッシーの「塔」では、銀色がかった、東洋的な響きがします。3ページ目に、何小節かにわたって、右手が旋律を弾き、その間左手は、2つの音のシンコペだけで寄与する部分があります。ここの音色は比較的暗く柔らかくて、他の部分とは明らかに対比をなしています。


あなたは、共感覚の持ち主ですか。

はい。例えば、イ長調ではある種の黄色が見えますし、ニ長調だと、青ですね。しかし、実際の音楽によっては全く異なった色を感じることもあります。自分の心の中では、全ての調が特定の色を持っているわけではありません。想像力に近いものです。

ドビュッシーのピアノの音は、例えばベートーベンの音とは違う響きとなるべきでしょうか。

もちろんそうです。ドビュッシーとシマノフスキの曲を録音しようと決めた時、多様な色彩や陰影を表現でき、かつ、大きな音量も出せて、低音が力強く、高音が歌えるような楽器を探しました。そして、ハンブルクでの初めてのリサイタルで弾いたことがある、ライスハレの楽器を選びました。更に、整音について、調律師の方と話し合いました。彼はハンマーの先のフェルトに、針刺しを使って整音することで**、よりソフトな音色を作ることができました。とても素晴らしい調律師で、すべて僕が思っていたとおりの調整をしてくれたおかげで、ピアニッシモでも綺麗な色を出すことができたのです。


ドビュッシーの良い弾き手となるには、どんな資質が必要でしょう?

音の色彩が重要だと、既に話しました。例えば、「版画」の「雨の庭」には、とてもドビュッシーらしい、面白い箇所があります。右手はある種のメロディを弾いて、その音色は朝露を彷彿とさせますが、一方左手は伴奏しています。僕の考えでは、各声部には独自の色を持たせます。右手が露の水滴を弾くのであれば、僕は銀色がかった色にしたいですね。それがやがて陽の光に透かされて最後は金色になります。もちろん、ドビュッシーにもヴィルトゥオーソ的な要素はたくさんありますが、リストなどとは性質が異なります。例えば、「喜びの島」では、ヴィルトゥオーソ的な要素は全部、銀色か金色の靄で覆うのがいいでしょう。


それは、演奏技術にとって、どんな意味がありますか。

アーティキュレーションは、もちろんバッハとは異なります。暗い音色には、指のテンション(Fingerspannung)はあまり強くなく、動きも慣性にまかせます。僕は時々、音を軽くするために、左右のペダルを5分の1だけ踏みます。




音楽評論家は、あなたの演奏を、明瞭、透明、ノーブルといった言葉で表現します。これで良いと思いますか、あるいは他の側面が足りないと思われますか?

作品によりますね。ウィーン古典派の曲の演奏であれば、それで良いですし、ショパンでも一部の曲は良いと思います。しかし、例えばドビュッシーの「グラナダの夕べ」のような曲の場合は、内面の緊張を表現することがとても重要になります。詩情も音楽では大切です。ですから作品の性格によって違いますね。


 "Zeit online" のインタビューで、あなたは物議をかもすような演奏は好きではない、とはっきりおっしゃっていました。

それは、全く相容れないところです。物議をかもす、というのは、作曲家のことは考えずに、自分のアイディアだけ考えて作品には配慮しない、という意味にとらえます。これは危険な道です。


一方で、グレン・グールドのようなエキセントリックな天才の話がいくつもあります。

個々の解釈で大切なのは、作曲家の作品に敬意を払うことです。作曲家の意図に従っても、解釈に自分のアイディアを自由に入れることは可能です。作曲家と自分のパーソナリティとを連携させるのです。作曲家とアーチストとの狭間で闘う必要などありません。


演奏家の独自バージョンはどう思いますか。ウラディミール・ホロヴィッツによる、ラフマニノフの第2番ソナタのような。

あなたは、好きですか?

確かに面白いとは思います。

何が正しい解釈法なのか、説明はむずかしいですね。他の演奏家の演奏会を聴きに行ったことがあります。始めのうちは、「僕だったら違う弾き方をする。」と思うのですが、聴いているうちに、突然その解釈、いいな、と思い始めます。奇妙ですが、もしアーチストが強い個性の人だったりすると、彼のアイディアを受け入れてしまうんですね。いつも全部受け入れる、というわけではありませんが。ただ、とても論議を呼ぶような演奏ですと、自分の中では受け入れがたい、という時もあります。例えば、グレン・グールドのモーツアルトがそうです。でも、グールドのバッハだったらどうでしょう?

... 彼のゴルトベルク変奏曲は素晴らしいと思います。

僕もそう思います。それから、もちろん、その演奏が行われる「時」によっても違いがあります。コンサートでその時限り聴く場合は良いけれども、CDで聴く場合はむずかしい解釈、というのはありえます。

(Unquote)
ネットで公開されているのはここまでです。

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最後の部分で、彼が2007年にビドゴシチの音楽アカデミーを卒業し修士をとった際の論文についての記事を思い出しました。テーマは、「コンクール、ステージ、スタジオ録音での演奏の特異性について――ラファウ・ブレハッチ、グレン・グールド、クリスティアン・ツィメルマンを例に。」

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シマノフスキ「前奏曲」の最初の部分