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2012年8月31日金曜日

ラファウ・ブレハッチの先生方が語る(3)

2005年の12月に、ポーランドの Gazeta Wyborczaに掲載された、テレサ・トロヤンスカによる記事の続きです。

ラファウ・ブレハッチは1985年6月30日、ナクウォ・ナド・ノテチョンで生まれ、22歳頃まで同市で暮らしました。地元ナクウォのエレメンタリースクール・セカンダリー・スクールで学びましたが、それに加えて音楽学校にも通いました。この記事は音楽教育の部分についての証言録になっています。

  5歳~ナクウォの音楽センター
7歳~ビドゴシチへ個人レッスンに通う。
8歳~ビドゴシチのアルトゥール・ルービンシュタイン音楽学校

15歳~ビドゴシチ市のフェリクス・ノヴォヴィエイスキ音楽大学にて、カタジーナ・ボボヴァ=ズィドロン教授に師事。22歳で卒業。(今回の記事では、この音楽大学の部分は含まれていません。)

ラファウ・ブレハッチの先生方が語る(1)では、ビドゴシチのアルトゥール・ルービンシュタイン音楽学校に入学するにあたっての出来事について、

ラファウ・ブレハッチの先生方が語る(2)では、それ以前の、誕生からナクウォの音楽センターに通うまで、

そして、この(3)では、ビドゴシチにて1年間通った個人レッスンと、その後アルトゥール・ルービンシュタイン音楽学校に通い出してからの様子が語られています。

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アリナ・ザレイスカ:彼と長時間座っていました。


(注:ここではラファウは7歳。まだビドゴシチの音楽学校に入る前の段階、1年間個人レッスンを受けていました。)

彼女は専門的にラファウの手を形成した。譜読みの仕方や低音部記号(ヘ音記号)を教えた。

-彼はとても早く習得しました。
レッスンを受けるごとに彼はめざましく進歩したので、退屈しないように、短期間にプログラムを変更する必要があった。

父親がラファウを小さな車に載せて、週2回、水曜日と土曜日の各々2時間のレッスンのために連れてきた。レッスンの間、父はソファに座り、レッスンを聴くか仕事をしていた。彼は保險のエージェントだった。

-私はお父さんに、ラファウには才能があるので、音楽学校で学ばせて、人前で演奏したり、他の生徒たちと切磋琢磨させるべきだ、と言いました。

1年後、ザレイスカはレッスン料を値上げした。
彼らは花束を持って行き、彼女にお礼を言った。

1993年。ラファウは8歳だった。


ヤチェク・ポランスキ- 彼を愛していました。

-フリデリック - ヤチェク・ポランスキはラファウをこう呼んだ。

ポランスキは、ビドゴシチの音楽学校でラファウに教えた2人の教師の1人だ。
彼がピアノの演奏を、アンナ・シャラプカが他の科目を教えた。
彼は7年間、毎週木曜日の9時から12時半か13時まで教えた。

- ラファウにとっては、聖なる時間でした。
父親は座って仕事の書類を読み、2人は演奏したり、話したり、冗談を言い合ったりしていた。

ラファウが、どんな冗談だったか、教えてくれた。
例えば、妹と衣装ダンスに隠れて両親が2人を探し回ったとか、
まるで、フリデリック・ショパンのように。
17.5メートルの廊下で、自転車を乗り回したとか。

家族でトルンのおじを訪ねた時、おじはラファウが少しは休むように、ピアノに鍵をかけてしまった、とか。

ラファウは、1日に4,5時間練習した。
ヤチェク・ポランスキの流儀では、学校でのレッスンは、「おはようございます。」で始まり、着席して演奏する、というものであってはならない。

- 絵画芸術について語り、どんな音楽を聴いたのか、何に興味があるのか、どんな本を読んだらいいのかを語り合うべきです。

教授は極度に感受性が強く、敏捷で、激しやすい人物、ブレハッチ氏とは全く逆だった。
2人が一緒にいる状況を想像するのは難しい。
ブレハッチ氏は勤勉で、数字は小数点以下第3位まで合っていなければならない。一方、ポランスキ氏はアーチスト。いきいきとした想像力があり、衝動的だった。

彼はラファウに言った。

- 両親のいうことを聞いちゃいけないよ。僕たちが一緒に世界を征服することも秘密だ。

彼はラファウに、ショパン、ベートーベン、"ラジヴィウ公のサロンで演奏するショパン"の絵を贈った。
これらは、ラファウの部屋の壁に今も掛かっている。



ポランスキの意見では、本物の教師は、生徒の内にある美や、美を認知しようとする欲求を喚起しなければならない。

モーツァルトは言った。

- 指が届かないのなら、鼻を使えばいい。
自分の内面に美があるのなら、君の手が自分の想像力を聴いて、それに従って動くはず。

- 1年後、私はラファウと一緒にワルシャワに行きました。彼はすぐに第1位をとりました。
ゴジュフのピアノコンクールに一緒に行った時、彼は全ての賞をとりました。全てです。これが、茨の道の入口でした。

教育者にとって、この生徒を教えることは、夢なのだろうか?

Yes.  結果を見るなら。
No.  彼のために費やす膨大な時間や、彼を人前での演奏会に出し、ストレスを感じつつ、次の計画をたてる状況を考えるなら。

ナクウォの新聞は、「アマデウスのようなラファウ」とか「彼はナクウォのショパンか?」といった見出しをつけた。

- 彼を愛していました。- と、ポランスキは、やや苦々しい声音で言った。彼らがラファウを連れてきたのです。
ポランスキが興味を持ったのではなかった。ラファウの成長のために、教師を変える必要があったのだった。


アンナ・シャラプカ: 彼はショパンのことを全て知りたがった。

- ラファウは1ヶ月間、リトミックを行うためのグループに入りました。しかし、彼はグループには合いませんでした。習得が早すぎるのです。
私が全教科を教えました。音感、音楽理論、音楽史。
学校の管理側が、ラファウには個別指導のコースを用意することを決めました。

1993年の当時、アンナ・シャラプカは卒業後数年というキャリアだった。
- 負担感は大きかったです。大きな責任。どうやって彼の成長を手助けできるのか?

彼は全ての音を認識できました。鍵盤のあちこちに散らばっている音もです。
しかし、彼はシャープかフラットかは気にしませんでした。同じ音だから、嬰ヘ音でも変ト音でも気にしないのです。
従って、音楽用語、調の原則を学ぶ必要がありました。これが重要だという認識は、ありませんでした。音程の認識にも問題がありました。

そこで、たくさんの課題を練習し、何ページもの課題が宿題に出された。
彼女がバッハのフーガを弾き、彼は旋律とそれ以外の音をを書きとめた。彼の年頃の子供は、普通できないことだ。
彼はそれをやり終えて、2週間後、自分で作曲したという課題を持ってきた。
心に深く存在する音楽なのだが、紙の上にうまく移行できないと言う。

そこで、彼女は作曲の仕方も教え始めた。
彼はピアノ三重奏をつくり、次にソナタをつくった。
革新的な曲ではなかったかもしれないが、その時点で、少しばかり修正を加えれば演奏に値するものが書けたのだ。

学校は、彼のためにスポンサーを見つけ、1年間の作曲のコースを始めた。

- 私は中世以降の音楽様式の違いを彼が理解できるよう、認識の仕方を教えようと努めました。
レコードを買ってきて、一緒に聴いて、アナリーゼをしました。
モーツァルト、ルトスワフスキ、ドビュッシー、ペンデレツキ。

彼がツィメルマンに夢中になり始めた頃、ツィメルマンの録音も買ってあげました。

ラファウはショパンについて全て知りたがった。アンナは、彼のために、トマシェフスキの洞察力に富んだ、分厚い本を与えた。

彼女の家族とラファウの家族は、一緒に演奏会やオペラを観に行った。
彼女はラファウに、8年間教えた。


ナクウォ市当局

私はナクウォの通りを歩いて、皆に天才音楽家がここで育っているんだ、と話したものだ。

- と、アンジェイチャク神父は思い出す。

彼はあらゆる関係者に働きかけ、ブレハッチ家を支援すべきだと訴えた。
ラファウがセカンダリースクールに行ったのは1ヶ月だけだった。学校では沢山の教科があり、練習の時間がとれなくなる。

ナクウォ市が、個人教育の援助金を出した。
ピアノの練習時間が確保できるように、全科目の教師達が、月曜から金曜まで毎日彼の自宅にやってきた。

- 僕に投資してくださったのです。そのことに、とても感謝しています。とラファウは言う。
- とてもやりやすいアレンジでした。

試験を受ける時だけ、彼は学校に行った。

- 友達と会う機会になったので、楽しかったですよ。とラファウ。
彼は中等教育終了証明をとるため試験を受け、まずまずの成績で合格した。


アンジェイチャク神父- 彼らはノートを閉じた。

2005年。ラファウは20歳だった。
アンジェイチャク神父は、フィルハーモニーホールで、審査員の後ろに座っていた。
素晴らしい場所だ。神よ、感謝します。

金曜日のことだった。3人のピアニストの演奏が予定されていた。
審査員は常にノートに何か書き込んでいた。
まず、ロシアのアンドレイ・ヤロシンスキが演奏した。審査員はメモをとった。
そして、韓国のイム・ドンミン。審査員はまた何か書き込んだ。

最後にラファウが登場し、ピアノの前に座った。ホ短調協奏曲の始めの何小節かがきこえた。
審査員はメモ取りをやめノートを閉じた。彼の演奏をききたかったのだ。


クリスティアン・ツィメルマン: 手紙

ラファウは、ニューヨーク市発の手紙を受け取った。
「自分のことを思い出しています。30年前のことでした。
今私は、君よりも、君のことがよく理解できます。」

(End)

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ビドゴシチ市のフェリクス・ノヴォヴィエイスキ音楽大学にて、カタジーナ・ボボヴァ=ズィドロン教授に師事して以降の別記事(ボボヴァ=ズィドロン先生の証言)もありますので、また機会を見て、ご紹介したいと思います。

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