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2012年2月17日金曜日

ラファウ・ブレハッチのインタビュー(T-Mobile、ポーランド)


ラファウ・ブレハッチの新アルバム「ドビュッシー・シマノフスキ」の発売に伴い、ヨーロッパでは非常に多くのインタビューやレビューが連日のようにウェブ上でも発表されています。ブログでも紹介したかったのですが、量が非常に多く、私の使える時間も限られているため、これまでは英語側の更新でいっぱいいっぱいでした。英語側もまだ掲載できていないバックログが多数あります。今週末は少し時間がとれますので、こちらでもいくつか紹介できたらと思っています。

以下は、T-Mobile Musicに、2月6日に掲載された、ラファウ・ブレハッチのインタビューです。新譜のプロモーションのため1月末にベルリンを訪れた際のインタビューの1つです。
新譜に関するインタビューは、ある程度想定問答が定まったようなものも多いのですが、このインタビューは少し変わっていて、是非掲載したいと思いました。ブレハッチの知性パワー全開、という感じです。質問者が自分の特定の興味に執着しているのに対し、ブレハッチは翻弄されず自分にとって大切な本質を淡々と話しています。特に、後半で、ブレハッチが、聴衆の役割について分析的に話す部分や、演奏者としての自分の使命を話す部分、とても興味深かったです。

なお、私はオリジナル言語の専門家ではなく、哲学の知識もありませんので、関連語彙等の正確度についてはご容赦ください。また、音楽用語、哲学用語で知識をお持ちの方からのフィードバックをお待ちしております。


T-Mobileのオリジナル記事

英訳したもの

人気は副次的な結果にすぎない。

メディアからの注目という点では文句のつけようがないようですね。クラッシック音楽では、ほとんどの時間を技術の向上に振り向けて、プロモーション的な仕事をするのは大変ではないですか。

確かに、新しいアルバムが音楽市場に投入され、今日のようなイベントもメディアからのサポートが必要です。ベルリンでもいくつかインタビューを受けましたし、あと数日はプロモーションにあてることになります。もちろんレーベルがとりまとめの窓口ではありますが、メディアからの提案は全て僕に提示されますので、最終的にプロモーションをどう行うかは、全て自分で決めることになります。
メディアとの関係については、クリスティアン・ツィメルマンからのアドバイスもあるのでしょうね。

彼は確かに自分の経験を話してくれました。ただ、彼がショパンコンクールで優勝したのは30年も前だということは認識しておく必要があります。以来、世界も変わりましたし、異なった方法で運用するメディアも登場しています。僕には少し異なった経験も必要でした。コンクール以降の6年間、そうした経験も積むことができたと思っています。

しかし、メディアから注目されるのは、良い兆候ですね。あなたのコンクールでの成功で、より多くの人々がピアノ音楽に興味を持ち始めました。

ええ、それはとても重要な現象で、特に若い人達にとって意味あることだと思います。ショパンコンクールも最大の音楽イベントのひとつですし、この傾向に貢献しているでしょうね。コンクールが5年に1度のみ開かれる、というのは重要です。稀にしか得られないものほど、価値が大きくなりますから。ショパンコンクールは、ポーランドだけでなく、世界中で威信あるものと捉えられています。また、コンクールは別としても、フレデリック・ショパンの作品は、こうした種類の音楽に人々を惹きつけます。多くの人々を惹きつける、磁石のような音楽ですね。

アメリカや日本では、クラッシック音楽の演奏家が有名人の地位を得ていますが、こうした現象はポーランドでもありえるでしょうか。例えば、ゾフィー・ムターやジョシュア・ベルが西欧で見せているような人気です。

悪いことではないと思います。実際、より多くの人々がクラッシック音楽を聴けるということですから。このプロセスは深まっていき、正しい方向に行くと思います。どんな音楽が提示されるのか、録音されるアルバムとそのプロモーションの仕方が、この方向性に大きな影響を与えるでしょう。僕の場合、もし人気を得るための進路を広げなければならないとしたら、それは決して僕の仕事の目的ではありません。人気が出るとしてもそれは副次的なことで、僕が録音のために行なった仕事の良い意味での結果だと思います。これが自然なプロセスの結果だとすれば、とても良いことです。でも、もしこれが音楽の仕事をする目的になってしまったら、既に疑いが出てきてしまいます。確かに、アーチストに人気が出ると、彼の音楽にふさわしい、より多くの聴衆に聴いてもらえるようになります。日本やドイツでは、多くの若い人達がクラッシック音楽のコンサートに訪れています。

確かにそうですね。ただ、才能よりもプロモーションが重視されることもよくあります。極めて能力た高いのに、広報が十分支えてくれず、より多くの聴衆を得るのが難しい音楽家も大勢います。その逆も―実力はさほどなくてもプロモーションが活発で多くの聴衆が聴くということもありますね。

音楽家のパーソナリティもいろいろで、個人の性格によって変わってくると思います。自分のことをプロモーションすることにはあまり興味がないアーチストもいて、――僕はその分類に入ると思いますし、そういうふうに振舞うことが自然で、自分の性格に合っていると思っています。一番大切なのは、自分が確信していることを行う、ということです。僕は、コンサートで、シマノフスキーやドビュッシーの音楽に強い関心が持たれていると感じると、このレパートリーを録音して永続的なものにしようと考えます。とりわけ、ヨーロッパでは余り知られていないシマノフスキの音楽のことを、よく考えています。今回のアルバムを作った理由のひとつは、西欧の聴衆に、シマノフスキの音楽に近づいてもらうことでした。

Polish Institute, Berlin, Jan. 2012


シマノフスキとドビュッシーを1枚のディスクに並列する、というのは、この2人の作曲家のピアノやスタイルの質感の類似点を示したい、という欲求からでしょうか。あるいは、その逆でしょうか。

むしろ、ふたつの異なった世界の鋭い対比を示したかったのです。もちろん、シマノフスキの印象主義の時代の作品、ドビュッシー音楽のスタイルを実際に示唆するような作品を選ぶことも可能でした。しかし今回はコントラストの原則を選びました。全く別の音楽の領域を、表現主義と印象主義を対比しようと思いました。このふたつの世界をつなぐ唯一の条件は、ヴィルトゥオーソ的要素のみです。しかし、この要素も、2人の作曲家では非常に違います。シマノフスキでは、オクターブや和声の要素が支配的ですし、ドビュッシーでは、ヴィルトゥオーソ的側面はもう少し軽い形で、アーティキュレーションや指で表現されます。

ドビュッシーの作品を演奏する場合、音の絵画の情緒や感覚的側面よりも技術面を重視していらっしゃいますか。

ドビュッシーは特にそうですし、僕の場合は全般的に言えるのですが、技術と音楽的な層を切り分けていません。作品に向かう時は、作品全体のロジックやメッセージに深く入り込んで行き、最善の演奏をし、作品を冒険のように体験します。「版画」の場合、すでに10年もこの作品を体験してきて、今だに僕を魅了し続ける作品ですが、解釈のアプローチはその間変わり続けてきました。もちろん技術的な層は作品にとって絶対的な基礎を成すものであり、議論の余地はありません。技術はマスターしなければならない。しかし、これは感情やメッセージを運ぶ担体でもあるのです。以前、シマノフスキの作品の方がドビュッシーよりもむずかしいですか、と問われたことがあります。何とも言えません。技術面だけを分析すればそうなのかもしれませんが、ドビュッシーの音楽に深く浸透していくと、別の難しさがあるのです。例えば、和音のバランスをとるために、実際全部の指が、独自の色を表さなければなりません。特定のコンポーネントを強調するだけでなく、個別の色で各コンポーネントを区別する必要があります。しばしば、音の色やその強さを明確にします。僕にとって、雰囲気の投影は色を通じて的確に捉えることができました。ドビュッシーの音楽の方が容易だとは一概には言えません。難しさの種類が違うのです。

各作品やジャンル、音楽史のある特定の時代は、それぞれ固有の勉強が必要でしょうか。特に作品の理解や感じ方という意味でです。つまり、各人はそれぞれ、自分の個性に一番合った音楽史の特定の時代を見つけるべきでしょうか。

一般化して言うのはむずかしいですね。音楽の世界には、古典派やバロック音楽を専門にするアーチストや演奏家がいる一方で、絶対的に多方面の才能があるピアニストが、色々なジャンルや時代の作品を本当に素晴らしく演奏する、ということもあります。先ほども言いましたが、感受性や作品との冒険がまずは大切です。というのは、もし僕がある作品に多くの時間をかけて取り組むと、すでに作品のことがよくわかります。この音楽が自分にどう影響するのか、またはどう受け止められるのか。従って、僕にとって重要なのは、自分が感じることができる作品だけを演奏することです。その状態はどうやったら得られるのでしょうか。ステージでの経験、様々な場所で様々な楽器で演奏を示すこと、作品に取り組み、作品への取り組みから離れること――これらの段階を全て踏んだ後に、僕は自分に問いかけます。――今こそ、スタジオに行って、この作品を録音する時じゃないのか、と。僕にとって、この道筋はとても理論的なものです。とりわけ、作品を他の人に対して演奏すること。なぜなら、この目的のために、音楽の美しさを他者と分かち合うために作品はこの世界に存在するのです。 聴き手のシマノフスキやドビュッシーに対する反応、聴き手とのコンタクトは、音楽家と彼の聴衆との間に作用するエネルギーと言えるもので、とても重要な、大切な要素です。

ご自分のことを、そうした、多方面の才能がある演奏家だと思いますか。どの作品でも、その前に座ってそこから何かを必ず見つけることができますか。あるいは、自分は決して感じることができない、というような作曲家や時代はあるのでしょうか。

全ての時代の様式や作品を試したことはまだありませんよ(笑)。音楽教育や、初期のコンサート、聴衆との経験など、僕がこれまでやってきたことを分析すると、これまでも、そして今も、バロック音楽と古典派音楽に焦点をあてていることがわかります。また、古典派と印象派の傾向も、自分にとても近い所にあり、これが、ショパンの解釈を開拓しました。というのは、この色彩の要素、音への感受性そしてポリフォニーは、ショパン音楽にとって非常に大切だからです。ショパンはヨハン・セバスチアン・バッハを愛し、ポリフォニックなアプローチが明らかに彼の中に存在します。また、僕に大きな影響を与えたものとして、オルガン音楽があります。僕が初めて音楽に魅せられたきっかけでした。これらの4つか5つの様式を僕は示そうとしており、とてもうまく出来ていると思います。感情に偽りがあると、聴衆はすぐに気づきます。アーチストが、自分のやっていることに完全に確信が持てないと、彼の演奏は聴衆の心に届きません。アーチストがステージで、自分のストーリーを語っていると感じると、これも違った印象を与えることになってしまいます。今僕は、シマノフスキの音楽に集中していますが、ショパンコンクール以降、多くのリサイタルで彼の曲を演奏してきました。今は更に、ヴァイオリンソナタにも取り組んでいて、来年、室内楽を演奏する機会があります。音楽ファンにピアノ曲だけでなく、シマノフスキの他の音楽を披露できるのを、とても嬉しく思っています。  

バロック、古典派、ロマン派の音楽は、主旋律が主導し和声があって、あまり知識のない聴衆でも簡単に受け止めることができます。しかし、十二音技法やポストモダニズムで起きることについては準備ができていません。ポスト十二音技法や無調主義等へレパートリーを広げようとするアーチストは、聴衆に届けるのにもっと困難を感じないでしょうか。ショパンなら、最低限の感受性を持つ人であれば万人に愛されるでしょうが、ショスタコーヴィチやプロコフィエフですと必ずしもそうではないでしょう。この場合、おっしゃたような原則はあてはまりますか。演奏家が作品を真に感じ取り、誠実に演奏すれば、準備のできていない聴衆であっても、受け止めることができるのでしょうか。

十二音技法の音楽は確かに難しいと思います。この場合、作品の技術はどのようなものかを明確にするなど、聴衆の側の準備が必要ですね。感受性は明らかに重要ですが、ショパンを聴く際も、感受性だけでなくある程度の知識が必要です。僕は、ロマン・インガルデンの著作に感銘を受けています。彼は、音楽体験を知覚する主体としての聴き手の役割は、能動的なものだ、と書いています。これは主に感受性に依存しますが、ある種の知識や態度にも依存します。もし、音楽を知覚する聴き手からの善なる意思が欠けていたら、つまり、何か美しいもの、あるいは、何か形而上的な経験であると立証できるものを経験したいとの意思が欠けていたら、(演奏家に)良い影響はもたらさないでしょう。 音楽はまた、徳を形成するものでもあります。例えば、バッハのカンタータなど宗教的な作品を扱っている時、聴き手の人格が変わることがあります。音楽作品はこのような力、明瞭な含蓄を持っており、感情を喚起し、ある種の思考や行動を導きます。 音楽を知覚する聴き手の役割は、絶対的に重要です。演奏家の使命もとても重要で、他の人間のために演奏すること、他者の心、ある意味で他者の人生のために演奏するのだということを、肝に銘じておくべきです。

20世紀の音楽はエリート的だとのセオリーに同意しますか。例えば今の場合、無調音楽、長短調が減衰するシステム、それもなお、万人に自然に理解できるでしょうか。理性が最重要なものを導き、感情や印象を支配するのでしょうか。

理性・知性・感情の領域は常に難問ですが、音楽においてもそれらの要素のバランスを自然にとるのは課題です。20世紀の音楽については、待つ必要があると思います。これまでも、歴史が、状況がどう展開するのかを検証してきました。ヨハン・セバスチアン・バッハの作品が忘れられた時代もありましたが、後年、例えばメンデルスゾーンの努力によって状況は変わり始めました。ある音楽が人間の歴史の中でどのように位置づけられるかは、検証するまで時間がかかるのです。

作曲が、音楽のオリジナルなアイディア、芸術の最も自然で直接的なアイディアをある意味否定することが、いまや普通になっていませんか。多分私たちは、今日の音楽で起きていることを、プロフェッショナルな音楽でもそれ以外で起きていることも、受け入れるべきではないでしょうか。単に現実の反映、複雑で異常なものになっていませんか。

様々なアプローチがあるのだと思います。例えばゾフィア・リッサは、音楽作品については、それが作られたコンテキストや作られた時(時代)、作曲家の経験等を理解しなければ、作品の理解はできないと主張しました。確かに、そうした理解によって、聴衆による作品の受け止めも、演奏も豊かになります。僕にとっては作品へ入っていくこと、そのロジックやメッセージを掴むことが最も重要で、ある意味、果てしないものがあります。そうでなければ、ある音楽作品は全ての人に影響し、作品の中の漠然とした部分が彼の人格に作用するでしょう。しかし、全ての音楽作品は、ある意味で、それらが作られた現実の反映でもある、という事実は、無視できないと思います。


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