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2010年5月7日金曜日

イギリスのグラモフォン誌のレビュー―ブレハッチのワシントンDCでのリサイタルとCDショパン協奏曲について

(English)
ワシントン・ポスト紙の文化評論家であり、イギリスのグラモフォン誌のコラムニストである、フィリップ・ケニコットが、グラモフォン誌(2010年5月)に書いたレビュー記事です。
ラファウ・ブレハッチのCDショパン協奏曲(アメリカでは2月23日に発売)と、ブレハッチの2月27日のワシントンDCでのリサイタルについて書いています。


フィリップ・ケニコット

音楽の全体をつかむには、生演奏会と録音とのバランスが必要


散漫な心の動きに合わせて、耳も進化するのだろうか?
一週間ほど、ポーランドの天才児ラファウ・ブレハッチの新アルバム「ショパンピアノ協奏曲」を聴こうと試みた。一週間ずっと、よく意味がつかめなかった。犬が吠え、仕事が寄ってきて、リビングルームの隅ずみに埃が舞い、掃除機が響いた。そんなわけで、ブレハッチの演奏についてわかったのは、何とも表現しがたい、ということだけだった。最良の演奏というのは、言葉で言い表すのがむずかしいことが多い。大きなアピールのある演奏だとわかりやすい。攻撃的な面白さのあるカリスマ的、激しく、劇的な演奏ならば。しかし、繊細なアプローチで、細部にわたるニュアンスで満ちた演奏というのは、大層な言葉で断定しても、カバーしきれない。


繊細なアプローチは、大層な言葉で断定しても、カバーしきれない。


日常の注意を散漫にさせる事項から切り離されているリサイタル会場で、ブレハッチの演奏は天啓だった。明瞭、精巧、テンポとダイナミクスの自己規律と成熟度は衝撃だった。もちろんラジオや録音でぞっとする声を聴かせるが、ライブだと完全に魅了できる歌手がいる。しかしそれは、マイクのちょっとした動作にすぎない。ブレハッチは違う。彼の音楽性は、正しいレパートリーで、正しい条件のもとで開花する。そして、正しい条件のうちもっとも重要なのは、聴き手のマインドだ。

ショパンの協奏曲は社会の財産、外向的な楽譜、ヴィルトゥオーソの伝統に基づく音楽だ。そのうちのひとつはフリードリヒ・カルクブレンナーに献呈されており、1830年のショパンの意識や熱意がどこにあったのかが示されている。ブレハッチは確固とした詩心と透明な心で演奏し、利己的な自己主張に屈することはない。荒々しさや尊大さ、感傷は皆無だ。.あたかも、アルフレッド・ブレンデルがベートーベンを弾くかのように、これら協奏曲を演奏している。

このことは、安易な追従を求める耳を失望させることになる。もし数週間後に同じピアニストが別のショパンを演奏するのを聴かなかったなら、―それは全く違うショパンだったが―、たぶん私はこのCDをどこかにしまいなくして、未消化のまま終わったろう。しかし、彼のリサイタルが、全部を変えてしまった。

2005年のショパンコンクールの優勝者ブレハッチは、学生のような風貌だった。彼のリサイタルプログラムも課題曲のような広範なもの(バッハ、モーツアルト、ドビュッシー、ショパン)で、あたかも賞をとろうとする学生のようだった。聴衆を前にした彼のひかえめな雰囲気は、彼の演奏の謙虚さにも反映していた。彼は最善の意味で篤学で、探求し追求していたが、常にテキストの範囲の中にいた。バルザックの「幻滅」にある、安っぽい知識人のみかけだおしを恥と感じる、熱意に満ちた少数の詩人、哲学者、科学者のことを、ずっと考えていた。パリのエスプリではないにせよ、どこかで、ブレハッチの名を記した屋根裏部屋があるように感じた。

リサイタルで彼が選んだのは、暗くプライベートなショパンの側面。ピアノ協奏曲のどこでも聴くことのできない、発作的な内向きに黙想するショパンだ。「幻想ポロネーズ」―ショパンが有名なポーランドのダンスとともに演奏した、あの奇妙で巧妙なゲームを、本当に理解できる演奏者が一体何人いるだろうか。病的なまでの内省に満ちた激情の中、ポロネーズはむしろ破壊されている。ブレハッチは、この断片からなる曲をつなぎ合わせ、一貫性のある、微小な動きを観るため身を乗り出させるようなドラマに仕上げていた。




ラファウ・ブレハッチ:際立った成熟度

彼はバラード変イ長調とスケルツォホ短調でも同じように、純朴と激情とのくっきりとしたコントラストを巧みに表した。両作品とも、不思議なほどピアニスティックだが、形式的ではない。ブレハッチのテクニックは明瞭さや各音符の独自性、ショパンが音のあいまいさを求めていると思われる時でさえ純粋なアーティキュレーションを強調する。彼は、これらの作品で管弦楽的な豊かさを示唆することには興味がないようだ。ピアノで十分なのだ。ピアノのテクスチャーと可能性があれば、ショパンが譜面に残したものを全て捉えるのに十分だ。


彼が唯一のアンコールにマズルカ作品17-4を選んだのも驚くに値しない。私たちは十分にブレハッチに称賛の意を贈り、彼はショパンのもっとも苦しみに満ちた絶望的な小さなエッセイで、聴衆に報いることにした。このチョイスは、彼がいかに深くこの作曲家を理解しているかを十二分に物語っていると感じる。彼が求めているショパンは、若いショーマン、完ぺきなパリの細密画を描く名匠としてのショパンではない。彼は、ポーランド人としてのショパンに興味があり、従って、この生誕200周年の機会に、この主題に関し若いポーランド人の演奏を聴けるのは良いことだ。


もう一度、ショパン協奏曲の録音を聴いてみる。まったく違って聴こえた。私はオーケストラの前奏は不要に気を散らされるようで、はやくブレハッチが聴きたくてうずうずした。ブレハッチだけが聴きたい。彼の演奏が、初めて、輪郭を持って立ち現れた。彼のせいではなかった。私がいけなかったのである。録音が醸し出す空虚な世界に何時間も過ごしがちな私たちにとって、コンサートホールに定期的に詣でるのは重要だ。そこで生まれるアーチストと聴衆との絆によってこそ、私たちは音楽の全領域に適応した耳で聴くことができるようになる。



フィリップ・ケニコットの、ワシントンDCのリサイタルに関するレビュー(ワシントン・ポスト紙)
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