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2009年10月9日金曜日

古典派ソナタ集CD(欧州版、アメリカ版)ライナーノーツ用に、ブレハッチが書いた解説

「ウィーン古典派ソナタ集CD」(欧州・アメリカ・ポーランド版)のライナーノーツに載っていた、ラファウ・ブレハッチによる解説です。 日本盤にはこの解説は入りませんでした。
ポーランド語のみ、オンライン上に存在しています。
内輪のファンの方にのみ回覧し、ブログでは去年鍵付きにしていましたが、リリースから1年以上たちますのでそろそろ時効かと思い、アップします。
ラファウ・ブレハッチのピアノが好きな方に、彼の考えていたことを理解していただければ。。



プログラムについての所感
ラファウ・ブレハッチ


ハイドン後期のソナタ変ホ長調と、ベートーベンのソナタ第2番とを連続させることで、私はこの2人の作曲家の関連と、
ハイドンの音楽が彼の若き後輩の初期の作品に与えた強い影響に、聴き手の注目を集めようとした。
ハイドンのスタイルは、ベートーベンにとって、自分自身の音を求め育成するための模範であり判断基準だった。
鍵盤曲の作曲において、二人の作曲家は、他の楽器のジャンルでの作曲経験を広く生かした。
変ホ長調ソナタの様々な音域での、主要なテクスチュア、流れ、声部を注意深く見るならば、
交響曲や弦楽四重奏的考え方の存在に気づく。
ハイドンの他のソナタを分析する際も、同様のプロセスが観察できる。

私は古典派ソナタのある種のパッセージを弾く時はいつも、様々な他の楽器の音色を想像して楽しんでいる。
ハイドン、モーツァルト、ベートーベンに取り組む際、アーティキュレーションやペダリング、音色に迷いがある時はいつも、
作品の全体または部分を心の中で「オーケストラ化」することにしている。
この「内心の楽器編成」をすると、解釈に関する迷いが消える。
ある種のオクターブは(レチタティーヴォ)セッコで、別のパッセージは豊かで温かいソノリティをもったチェロのように、
(例えば、変ホ長調ソナタのアダージョの中間部分)弾くべきとわかっているが、
別のフレーズはクラリネットの音を模倣するし、別の低音のある種の音は明らかにバスーンを再現することになる。
ハイドンのソナタ第3楽章は、極めてオーケストラ的な性格を持つ。
聴いていると、トゥッティの音や、もう少し小規模な楽器群(木管や弦)の音を容易に想像できる。

変ホ長調ソナタの一楽章に見られるような、速い音の連続を弾くとき、
私は弦楽器の典型的なフィギュレーション(装飾的表現)を連想する。
つまり、16分音符や32分音符でさえも、個々の音が全て重要であり、聴こえなければならない。
音符ひとつが欠けたとしても構造全体を乱してしまう。――これは真珠の首飾りに似ている。
すなわち、真珠一粒という各要素が、それぞれにおいて完璧であり注目に値するが、
同時に、他の真珠とまとまることによって調和ある全体を創り出すことで、私たちに強い印象を与えるのと同じだ。
この「真珠のような」音の連続のフレーズを思い描くことによって、機械的で単に技術に走った、
エチュードのような速いフィギュレーション法を避ける手段となる。

もちろん、このソナタには、多くのスフォルツァンドや著しいダイナミクスの対比によって表現される勝利の雰囲気から、
最終章や第1楽章第2主題でのユーモアやウィットにいたるまで、種々様々な異なった雰囲気が含まれている。
ハイドンがほぼ同時期に書いた交響曲「ロンドン」や、イギリス滞在時代に作曲した他の音楽にも共通の精神が見られる。

類似の質感は、ベートーベンのイ長調ソナタでも聴くことができる。
これはハイドンに献呈され、ハイドンの変ホ長調ソナタとほぼ同時期に、ベートーベンがハイドンの下で学んでいた短い期間に作曲された。
第1楽章の最初の部分、特に9から20小節と、166から185小節までは弦楽四重奏のように私には思える。
20小節で最初のモチーフがフォルテで繰り返される部分は、私にとっては疑いなくオーケストラのトゥッティに他ならない。
しかし、典型的なピアニスティックな要素も、この作品には明瞭に存在し、その感情的で表現豊かな特徴は、
成熟し、反逆的で英雄的なベートーベンを予見させる。
(例えば、最終楽章ロンドの中間部のスタッカートの部分や、多くの和声の変化(harmonic changes)を伴う、情熱的な第1楽章の再現部など。)

モーツァルトのソナタニ長調k311は、オペラや交響曲を明確に考慮するモーツァルト独自の
本当にユニークなピアニスティック・スタイルの典型例だ。
第2楽章の痛いほどに美しい声楽のような主題は、特別に感動的で心を平穏にし、
オペラこそモーツァルトの真なる愛の対象だったことが、明瞭に示されている。
中間の楽章は作品の“心”だと、私は常々感じている。
この楽章において、作曲家も演奏者も、自身の魂の最も深い部分に潜む全てのものを、音で顕在化させる機会を得る。
名状しがたい魂の奥底のものを、全て明瞭に表現する自由を得るのだ。

今述べたことは、ロマン派の作品のことだろうか。そうではない。
古典派の作曲家が、ロマン派の作曲家とは異なった喜び、悲しみ、希望、絶望感を感じていたと推測するのは間違いだろう。
感情の基本的な性質はいつも同じだ。表現の仕方が変わるのみだ。
バロック、古典派、ロマン派、そして印象派の作品も含め、レパートリーを弾いていると、様式やアプローチはそれぞれ独自ではあるが、どの作曲家も伝える本質、感情、喜怒哀楽は常に同じだと感じる。

(ラファウ・ブレハッチ)


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ラファウ・ブレハッチが書いた原稿はもっと長いものだったのですが、編集の都合でカットされてしまったそうです(笑)。そういえば、ハイドンの記述が、他より長めですね。
そういえば、今年のショパン・コンチェルトのライナーノーツも、まとめの部分のパラグラフ、ラファウ・ブレハッチの人となりが書かれた一番大切な部分が、まるまるカットされてしまったこと、以前に書きました。
カットされた「まぼろしの部分」、来週になるかもしれませんが、アップしますね。 



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